今回は戦後70年という事で、日本を戦争から平和に導いた重光葵をご紹介しました。
私自身、重光葵のことを全く知らず、取材を通してたいへん偉大な人物だという事が
分かりました。
重光葵は、本当に家族と日本を愛していたんだという印象を受けました。
高校から親元を離れ、外交官となって各国へと赴任してからも、定期的に家族へ手紙を送り続けていたそうです。今でも家族へ宛てた多数の手紙や写真が残されています。
漢学者であった父はたいへん厳しかったそうで、朝は井戸水で身体を清め、床の間で教育勅語を暗唱させられていたといいます。
しかしながら、海外へも目を向け、重光へ英語やドイツ語を勉強するように説いたのも父だったそうです。
この教えが、右足を失おうが折れない強い精神力と、深い愛国心とともに国内外で活躍した重光葵の礎になっているのだと思います。
また重光は多くの重大事件に関わっています、やはり第二次世界大戦の降伏文書調停が最も印象に残ります。
重光は降伏文書にサインをする際「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉え、そのときの心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」(日本の行く末が栄えて、降伏文書に署名した私の名前を蔑む人が多いことを願いたい)と詠んでいます。
強固な帝国主義の時代、しかも敗戦確実な状況で後世の繁栄を考えたのは重光だけだったのではないかと思います。
蔑むことはなくとも、現代日本の発展と平和があるのは重光葵のおかげと言っても過言ではありません。
学校で学ぶ幾多の戦争や国際的事件に関わり、しかも大分出身なのですが、大分県民にもその来歴や人物像を知らない方が多いと取材先で伺いました。
8月22日(土)からは、大分県先哲資料館において重光葵の企画展も開催されます。
多くの方に足を運んでいただき、重光のことはもちろん、日本が平和である意味を考える機会になればと思います。
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