2016年4月4日月曜日

4月の放送 豊後府内の職人たち





今回は「豊後府内の職人たち」と題し、大分市歴史資料館で開催中の企画展を訪ね、大友時代の遺跡や出土品をとおして当時の職人を紹介しました。


番組で伝えたとおり、当時の大分は福岡の博多や大阪の堺と並ぶ国際貿易都市として栄えていた事から、日本においても世界に最も近い地域のひとつだったのでしょう。
また、大友館を中心に約5,000軒もの町屋が立ち並んでいたとの事。
「七 十一番歌合」にあるように、現代に生きる私たちでもたいへんな賑わいだったであろう事が想像できます。また、職人もひとつの職につき1人だけではなかった はず。「ああじゃねぇ、こうじゃねぇ、あそこには負けられん」などと言いながらそれぞれの技術を誇示していたのではないでしょうか。



出土品の中には、全国的に見てもたいへん貴重なものもあるそうです。
医師が使っていた薬研(やげん)もそのひとつ。
近現代のものは残っているそうなんですが、戦国時代のものが出土する事はなかなかないそうです。
また、当時は貝磨(かいすり)という職人がおり、螺鈿(らでん)という技法を持っていたそうです。
螺鈿はアワビやアコヤガイなどの貝殻の内側を使用し、漆器などに装飾を施す事やその技法を用いて作られた工芸品のこと。
南蛮貿易が発展していた事もあり、螺鈿の工芸品は海外でもたいへん人気だったそうです。

今回ご紹介したように、豊後府内には多くの職人がいましたが、残念な事にその技術のほとんどが現在の大分に継承されていません。
大友氏の崩壊や、南蛮貿易の規制など様々な時代背景はあるでしょうが、今その当時の技術が受け継がれていれば、また違った大分になっていたかもしれません。
そんな時代背景にあっても現代に受け継がれている貴重な技術は、今後も絶やす事なく、後世に受け継いでほしいものです。

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