2013年8月2日金曜日
<8月の放送>黒田勘兵衛 天下を狙う
豊後の関ヶ原と言われる石垣原の戦い。
そこで黒田軍と激闘を演じた人物が吉弘統幸(むねゆき)です。
石垣原の戦いでは黒田軍の敵となってしまったが、一時は黒田如水に招かれ、黒田家の重臣・井上之房の家に預けられていたこともある人物です。
後に従兄弟である柳川城主・立花宗茂の下へ身を寄せ、これに2,000石で仕えることとなります。
この吉弘統幸、たいへん義理堅い人物として知られています。
関ヶ原の戦いの際、自分が仕えていた立花家は西軍につくことを表明。
しかし統幸は、大友家当主・大友義乗が徳川家に仕えている為、大友家の旧恩に酬いようと宗茂に断って立花家を暇請いし、義乗の元へ向いました。
その道中に大友家の再興を狙う前当主・大友義統に出会い、統幸は義乗のこともあり義統に東軍加担を進言しましたが、義統は聞き入れず。統幸の思いとは裏腹に、西軍として戦うことになってしまいました。
石垣原の戦いでは、得意の槍を手に獅子奮迅の活躍を見せ、数の上で劣る大友軍を奮い立たせましたが、徐々に劣勢に立たされると、主君である義統に別れを告げ、残りの手勢30余騎で無謀にも黒田勢に突撃、七つ石において戦死しました。
統幸は最期まで義統をはじめ、お世話になった人々に義理を通した男でした。
彼の死後、その統幸を近くの臨済宗・太平山宝泉寺の住職が村人と相談したうえで、石碑をたてて手厚く葬り、その印に一株の松を墓の側に植え、位牌を寺に安置して、その菩提を弔っていました。
大正11年(1922)、地域の人々の手により、墓所の前に一間社流造の本殿と入母屋造裳階付の拝殿を建立。「吉弘神社」と名付けられました。
敗軍の将ながら、このように祀られているのは珍しく、それほど彼が魅力的な人物であり、敵味方関係なく評価されていることの表れでしょう。
また、「吉弘」の名が残る国東市武蔵町吉弘地区では、楽庭八幡神社の境内で、天下泰平・五穀成就・虫祈祷のために行われる踊りである「吉弘楽」が重要無形文化財として今なお受け継がれています。
全国的には無名の吉弘統幸ですが、優秀な戦国武将のひとりであったことには違いないでしょう。
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