当番組のコメンテーターとして出演していただいておりました、大分学研究会の辻野 功会長が去る3月16日にすい臓がんのため、76歳でご逝去されました。
辻野会長に最初に出演していただいたのは「南蛮文化を花開かせた大友宗麟」、そして最後出演していただいたのは昨年10月に放送した「悲劇の戦国武将 吉弘統幸」でした。
そのときの取材は、福岡県の柳川市に行き、そのまま豊後高田市へ行くというものでした。半年前のことですが、そのとき食べたお昼ご飯まで思い出せるくらい鮮明に覚えています。
ほかには宮崎県まで日帰りの取材に行ったこと、取材に向かう車中で交わした会話、いつもの飲み物、口癖など、数えるほどしかご一緒したことのない中でも内容の濃い時間を過ごさせていただきました。
会長のおかげでこの番組がよりいいものになったと思っています。
ここまで「大分」を知っている方は他にはいないのではないでしょうか。
思い出はつきませんが、謹んでお悔やみ申し上げます。
さて、今回は豊後三賢の1人である「広瀬淡窓」をご紹介しました。
江戸時代の学者・教育者であり、私塾「咸宜園(かんぎえん)」の創始者です。かくいう私は咸宜園(かんぎえん)の読み方を知らなかったのですが・・・
それはさておき、咸宜園の名は中国最古の詩集「試経」にある、 「殷、命を受く咸宜、百禄是れ何う(いん、めいをうくここごとくよろしく、ひゃくろくこれになう)」からきています。「咸く宜し」とはすべてのことがよろ しいという意味で、身分や男女に関係なく受け入れ、一人一人の意思や個性を尊重する教育理念がその名に込められています
いわば、「等しく教育を受ける」ということの先駆者だったということです。
実はこの広瀬淡窓という人物、75年の生涯のうち、3分の2の50年間は病気のため寝床の上にいたと言われています。その中で、様々な人との出会いや別れがあり教育者となるわけですが、淡窓が書き記した「万善簿」というものに感心せずにはいられませんでした。
人知れず自分の善行・不善行について書き記し、73歳までにその総数が16125に達しています。
自分が万善簿をつけたとするならば・・・無理でしょうね。
まず、何がよくて何が悪いのかがわからなくなりそうです。意識して善行をするとなると、それはそれで違う気がするし、悪い行いはあげればキリがなさそうだし・・・
途中で投げ出してしまうこと間違いなしですね。まあ私のような人物は、逐一何かを書き留めるという作業自体が長続きしないものなのです。
こういうことを考えると、自分がとことんダメ人間なのではないかと思います。
いい事をしようとして行うのではなく、自然といい事ができる人間になりたいものですね。
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